音が、奔る。
時には春風のように、時には嵐のように。
旋律は情景を映し出し、夢幻の世界に聴衆を誘う。
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『炎のマエストロ』とも綽名される、その指揮者の振るコンサートは、実は少ない。
彼が完璧主義者であるが故だと評論家は評する。
演奏家たちにとって、彼は『合わない』タイプであるらしい。
それでも、例えどんなに小さなコンサートであったとしても、彼は決して手を抜かない。
その姿勢、いわばポリシーとでもいうような物に、密かに傾倒する者もまた少なくはなかった。
芸術家とは、かくあるべきだ、と公言した者もいる。
そして今。
舞台の上で仲間に混じってビオラを弾く青年―――――――小狼もまた、その1人だった。
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今回のこのコンサートは、映画やミュージカルで使用された音楽を集めてある。
耳に聞き慣れた曲もあれば、なかなか聞く事の無い物もある。
全部で15曲、緩急取り混ぜての選曲がなされていた。
今演奏しているのは8曲目の『踊りあかそう』。
ミュージカルに始まって、映画にもなった名作を彩った曲だ。
当然聴衆の耳にも聞き慣れた曲。
今回用に編曲がされており、ピチカートが多用されている。
実は小狼は、この『ピチカート』が少し苦手だった。
『ピチカート』とは、弦をつまむようにして弾く奏法。
弓で弾くのとは違って、音も小さいが、それ以上に微妙な表情を見せる音の出し方だ。
ましてや聞き慣れた曲ならば、失敗すれば悪目立ちする事この上ない。
だから全身の神経を集中させて指先に全精力を注いだ。
そのせいか、曲が終わった時、恐ろしいほどの虚脱感に襲われて。
思わず深いため息が出てしまい、隣の奏者がちらり、と自分を見た。
そして、指揮者も。
(・・・しまった・・・・。)
後悔しても出てしまったものは仕方がない。
少し首をすくめる形で小狼は小さくなった。
演奏家にとって、肩に力が入りすぎることほど、マイナスな事はない。
次の曲は『剣の舞』。
勇壮な、ハイテンポな曲だ。
映画の中でも、クライマックスとも言うべきシーンで使われたと記憶していた。
金管系、それもトランペットなどが競い合うように曲想を高めていく。
弦楽器はいわばベースに回る形にはなるが、それでも曲に深みを与えるためには不可欠だ。
本来ならほとんど目立たないはずの弦楽器も、今回は結構目立つ編曲がされていた。
集中が途切れていたのは、小狼自身の失策。
(・・・・!)
自分でも、しまった!と思った。
少し難しい目の音の移行の際、弦が、弓が調和を乱し。
音が、滑った。
それは、とても微かな、『ずれ』。
カシ――――――――ン!!
指揮棒が指揮台を叩く音だと理解するのに時間がかかった。
はっと顔をあげると、水を打ったように静まり返った空間の中で、指揮者が厳しい顔を自分に向けていた。
その手にした指揮棒が。
すう、と動き、ピタ、と自分を指した。
お前が、間違った。
無言で示された、叱責。
小狼は、自分のせいで曲そのものが止められた事を知った。
俺は、どうすれば。
目を閉じ、すう、と息を吸い込んで。
小狼は立ち上がり、客席に向かって深々と頭を下げた。
申し訳ありません。
俺が間違いました。
一言も流れない言葉が、確かに響く。
心の声が、ホールに。
指揮者もまた、客席に向かって、軽くではあったが頭を下げた。
そして。
すい、と指揮棒を上げた。
(え?!)
その合図は、『この曲の最初から』を意味しているのではなく。
この『コンサートの最初の曲から』を示していた――――――――――。
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「じゃあできるだけ早く帰るよ。」
電話の向こうで不安そうな声がする。
「大丈夫。明日の朝には着くから。」
そう言って、電話を切った。
ほう、とため息をついた。
そのまま肩のバックを抱えなおして。
足はホームに向かって進み始める。
(エーと・・・・22時50分か・・・・。)
電車はすでにホームに入っている。
この電車は普通電車だが、夜中も走る唯一の電車だ。
朝に終点に着くので、特急や飛行機、またはホテルを利用するよりも安上がりだ。
だから懐に難の有る者は結構利用する。
彼もまた。
この電車を利用するつもりだった。
『最初から』やり直したせいで、1.5倍以上の時間がかかった。
プログラムが終わった段階で、終電ぎりぎり。
少し辺鄙な所にあるこのホールの、唯一ともいえる『足』が無くなる。
その時点でダッシュで席を立つ者も数名いたが、観客のほとんどは残っていた。
毒を食らわば皿までも、という所か。
アンコールを4曲。
終われば、当然終電は遙か彼方。
タクシー会社が稼ぎ時とばかりに大量の車を回してきていた。
それでも積み残しが出るくらいだったのだが。
そしてもちろん、演奏家たちは疲労困憊。
へとへとになった身体を引きずるように、ハイヤーでそれぞれの家路に、あるいはホテルへの途につく。
しかし小狼はここの地元出身ではあったが、家は別にあった。
もちろん超高速な特急を使えば『今日中』に帰れる。
だが延長したせいで、すでにその接続は断たれ、飛行機ももちろんない。
金銭的に余裕のない彼にとっては、当然過ぎる選択だった。
(珍しいなあ。)
車両に足を踏み入れた小狼は、まずそう思った。
いつもなら、この電車は結構混んでいる。
それなのに、今日に限って空席すらあるのだ。
(よかった、座れる・・・・。)
もちろんその疲労の原因は自分なのだが。
眠るのに良さそうな場所、4人向かい合わせの席の空いていそうな所を探していて。
その目が信じられないものを捉えた。
「・・・マエストロ・・・・・・?」
4人席に、窮屈そうに座っている長身の姿は、紛れもなく先ほどまでタクトを振っていた人。
目を閉じていたその人は、ゆっくりと目を開けた。
「・・・・お前か・・・。」
「・・・・ここ、いいですか?」
返事の代わりに、少しだけポーズが変わった。
一礼して斜向かいに腰掛ける。
「今日はご迷惑をおかけしました。」
「謝るくらいなら気を抜くな。」
言い訳はできない。
――――――――『気を抜いた』のは自分なのだから。
「以後、気をつけます。」
「そうしてくれ。」
「はい。」
発車のベルが鳴り響き、ゴトン、と電車は動き始めた。
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「――――――――『ピチカート』は嫌いか。」
動き出してから1時間ぐらい経っただろうか。
ぼそり、と問われた。
「・・・・・いえ。『音』は好きです。」
「そうか。」
それ以上は何も言わない。
奏者が奏法を嫌うならば、もはやどうしようもないが、『音』が好きであるならば改善の余地はあるだろう。
無言の期待を心に刻む。
「今後のご予定はどうなっているんですか?」
自分の知る限り、彼がタクトを振る演奏会はもう今年は無かったように思う。
演奏家にとっては鼻つまみ者だということか。
しかし今日のコンサートが、全体で1つのイメージを構成していたからだと知る者は少ないだろう。
小狼はたまたま演出家の弟子と知り合いで、その事を聞いていた。
だから最初からやり直したマエストロに、さらに共感したのだ――――――――。
もちろん、それは、本当に少数派であるのだろうけれど。
「この国では振らない。外国の小さな楽団に招聘されているからそこに行く。」
「外国ですか。」
「好事家が集まったアマチュア楽団だ。上手いんだが、貪欲さが足りねぇ。」
なるほど、そういう人種の集まりだったら、案外彼の性格はよい方向に発揮されるかもしれない。
「凱旋公演、なんてのもありそうですか?」
「さぁな。ものになるのかどうか。」
きっと彼なら成し遂げるだろう――――――――――それは確信に近かった。
「必ず。」
「あ?」
「必ず、なってみせます。・・・貴方が『絶対にこいつを呼びたい』と思える演奏家に。」
その目に宿る、決意。
それを認めて。
マエストロはかすかに笑った。
「楽しみに待っているぞ。」
少し疲れたような、しかし澄んだ色の紅い瞳が。
優しげな光を浮かべるのを小狼は確かに見て取った。

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