それは梅雨も過ぎ。
暑さが本番になってきた文月の頃。
そろそろ蝉の声も聞こえ始めた。南を向いている居間は、使いにくくなるだろう。
今、柱にもたれて座す縁側は北向きだから、風さえ通ればずいぶんと涼しい。
縁側でのんびり手酌で飲む酒は、実に美味い。
「あまり昼間から飲むのは・・・・。」
たまの休み、苦笑しながらつまみを持ってきてくれる。
「酒は百薬の長、ってな。」
「飲みすぎねば、の話であって。」
「俺にはこれでも足りねぇくらいなんだよ。」
「肝臓にも良くないし・・・・。」
強く言わないのをいいことに、そのまま手元に引き寄せる。
その髪に手を滑らせれば、飾り紐に行き当たった。
弥生の日に、自分が贈った飾り紐。
それ以来、毎日使ってくれている。
たまには違うものをつければ、とも思うこともあるが、これはこれで嬉しいものだ。
だがさすがに毎日使っていると、経年変化とでもいうような物が出てくる。
「・・・・少し色が褪せてきたかな・・・・・・。」
ある意味『浅い』色目である藤色。退色は避けられない。
会話、というか、独り言、が。
ここで途切れてしまったことを、後に後悔する事になろうとは。
そして。
『気づかなかった』自分を責めることになろうとは。
人知れず、握り締められた指に力が込められたことに。
―――――――――――――― * ―――――――――――――
忍軍のほうで大掛かりな演習があり、それに時間を取られた、というのもあるだろう。
数日、といっても3〜4日のことだったのだが。
家を空け、戻ってきて。
普通に、いつもどおり。
――――――――――のはずだったのだが。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
奇妙な違和感を感じた。
(何が、おかしい?)
解らない。
だが、『何か』が違う。
それこそ眉間に皺をさらに増やして。
考えて、考えて。
ようやく思い至って顔を上げた。
「・・・喉・・・・・傷めたのか?」
『声』を出していない。
元々、リアンは口数は少ない。
同じ魔術師であるファイがかなり饒舌なせいもあるだろうが。
だからといって、一言も口に上せないのは、やはりおかしい。
「傷めたのか?」
再度問うても。
あいまいな微笑みが返るだけ。
「傷めたんなら、蘇摩に薬を処方してもらえ。」
頷くでもなく、首を横に振るでもなく。
およそはっきりしない。
「早く寝めよ。」
夜番なのが、どこか悔しい。
後ろ髪を引かれる思いで家を後にした。
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その夜襲ってきた刺客たちは、多分に八つ当たりをされたようで。
およそ完膚なきまでに叩き潰されたとの報告が天照に上がる。
「ま、いつものことだな。」
独り言は、苦笑する深遠の闇が同調する。
その天照も。
違和感を感じていた。
(・・・何だ?)
その違和感の原因は、夕刻近くになってやっと忍軍から開放されてきた黒き疾風が解き明かした。
「蘇摩!・・・あいつ、お前の所に行ったか?」
「?・・・・御近習様のことか?・・・いや?おいでにはなっていないが?」
「・・・ちっ・・・・・。」
「どうした、黒鋼。」
半ば悔しそうな、焦りすらみせるその姿に、ほんの少し失笑を禁じえず。
天照の問いに、黒鋼は憮然として答えた。
「・・・喉を傷めているみたいなんだ・・・・一言も喋らねぇ。」
「それはいかんな。リアンはどうした?」
「今日はもう退出されましたが・・・・。」
「蘇摩、とりあえずの薬を黒鋼に持たせよ。」
「御意。」
蘇摩が消えた後で。
天照はニヤ、とした。
「一応聞いておくが・・・夫婦喧嘩などではあるまいな?」
「・・・はぁ?!」
「リアンも人間、お前に対してキレぬとは限るまい?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
どう言い返そうか、と言葉を探していると、蘇摩が薬を持って帰ってきた。
「これを1包ずつ、普通の茶のようにして淹れればいい。うがいしても効く。」
「すまねぇな。」
そのまま姿を消した影に、天照はクックッと忍び笑いを漏らした。
「帝?」
「いや、『喉を傷めた』のではなく、『口をきいてもらえぬ』のだったら面白いのにな。」
「またそのような・・・・・・。」
蘇摩のため息が、暮れなずむ空に散っていくのもまた、いつものことだった。
―――――――――――――― * ―――――――――――――
「帰ったぞ。」
応えは、無い。
眉間の皺が、また増える。
「・・・?」
ふと、異様な『気』を感じた。
足音を忍ばせ、気配を消して歩みを進める。
奥まった部屋。
いつも寝所に使う部屋の横、小さな三帖間に。
きちんと座っている姿が見える。
何かをしている――――――――――。
(『鏡』・・・・?)
残念だが、普段鏡を使うことは無い。
だが、客があったりした時の為に、一応の調度として鏡台がある。
使わない分、いつもはこの部屋で、布を掛けられているのだが。
その布が、外されている。
そして、周りには不釣合いなほど明るい燭台。
(何故、『灯り』が要る?)
――――――――――『見えない』、のに。
微かに見える横顔に、どこか逡巡の色が見えるのは?
その座る、その姿を囲むように。
魔法陣が現れた。
「!」
何かの魔法を仕掛けている。
それも、自分自身に?
ただただ凝視する自分の目の前で。
その人は。
意を決したようにその目を開いた――――――――――。
「・・・・・・・・・・・・。」
声は、無い。
ただ、鏡を見て。
髪に手を滑らせ、飾り紐に触れて。
そっと。
撫でている。
そしてしゅるり、と紐を解き。
手の内に来た紐をじっと見ている。
その、仕草は。
魔法陣が、ユラ、と揺らいだ。
はっとしたように魔法陣を見遣り。
その顔に哀しそうな表情を刻んだ。
瞬間!
魔法陣が消え、光が走り――――――――――空気を叩く振動音がして。
弾かれたように倒れ伏す。
そのとき確かに血飛沫が散ったのを認めて。
黒鋼は飛び出した。
「おい!!どうした!!」
抱き起こして――――――――――愕然とした。
目から、血が流れている。
「しっかりしろ!今蘇摩に・・・・!」
「・・・大事無い・・・・・。」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!!こんなに血が・・・・!」
「大丈夫だから。」
その声は、氷のように凍てついて。
しかしその意識は霧の中に散っていく。
―――――――――――――― * ―――――――――――――
血の跡を丁寧に拭く。
痕跡を残さないのは、忍びであるならば基本的知識ではあるのだが。
鏡台に布を掛けようとして、その手が止まった。
あの時。
あの仕草は。
確かに『見て』いた――――――――――。
『何』を?
解らない。
混乱した頭のまま寝所に戻り、どかり、と腰を下ろした。
目の上の手拭いを取り、桶の水に浸して絞る。
そっと目の上に乗せるが、まだかなりの熱を持っているようだ。
大丈夫だ、と言われても。
俺のせいか?
天照の言葉が脳裏をよぎる。
思い当たる節が無いわけでもない。
酒の量が過ぎる、とか。
主に対する言葉遣いが如何なものか、とか。
折に触れ、微かに忠告めいて言われていたことだ。
もちろん聞き流してきた。
堪忍袋の緒が切れたのか?
普段あまり感情を見せないだけに、爆発したら確かに怖いのかもしれない。
――――――――――しかし。
「・・・・・・・・・気が付いたか。」
微かに身じろぎしたのを目に留めて、つぶやくように声を掛けた。
こちらを向こうとして、目の上の手拭いに気が付いたのか。
取ったのを受け取り、桶にそっと放り込む。
身体を起こそうとするのは押しとどめた。
「まだ寝ていた方がいい。」
だが静かに首を横に振る。
しょうことなしに、支えて座らせ、着物を肩に掛けた。
「『何』を見ていた?」
その問いに、答えてはくれぬと解っていても。
問わずにはおれなかった。
思ったとおり、答が耳に届くことは無い。
「・・・・・・俺に『魔力』なんてものは無ぇ。」
ぼそ、と。
何を言い出すのか、と訝しげな表情から目を逸らす。
「『心も読めねぇ』し、『予見』もできねぇ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・お前が何を考えてるのか、俺には・・・・解らねぇ・・・・。」
だから、と。
黒鋼は改めて向き直った。
「『言葉にして』言ってくれなきゃ、解んねぇんだよ・・・・・。」
不満があるなら、それを。
思う所があるなら、その胸中を。
『言葉』にして伝えて欲しい。
ただ推し量り、想像するばかりでは疲れてしまう。
このままでは。
いつしか『推し量る』ことさえ、しなくなってしまうだろう。
全てを得た、と思っていたのに。
そう、魂さえも。
それなのに。
『心』が遠い――――――――――。
苦しい心がわかるのだろう。
座って、顔を伏せて。
手に持った、あの飾り紐を握り締めて。
ようやっと紡ぎだされた、言の葉は。
「また・・・・・・『置いていかれる』・・・・・・。」
「?」
それはかつて聞いたようにも思う――――――――――『時の魔女』であった頃に。
永遠の時を渡り続けるが故に、あらゆるものに『置いていかれる』のだ、と。
だが、今や『時の魔女』とは袂を別ち、『置いていかれる』ことは無くなったはずなのに?
沈黙をもって、先を促せば。
思いもかけなかった言葉が流れてきた。
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私とて、『藤色』がどんな色なのかは知っている。
だが、一口に『藤色』といっても、濃いのもあれば薄いのもある。
この紐が、『どんな藤色』なのかはわからない。
解らないのに。
『時』は容赦なく流れ、『私の知らない所』で。
この色は褪せて失われていってしまう。
私の知らない色が。
私が知らないうちに。
もう『置いていかれる』事はないのだと思っていた。
でも、やはり。
『置いていかれて』しまう――――――――――。
だから。
「・・・見たかった・・・・・この紐の、せめて『今』の色を・・・・・・。」
自分がつぶやいた、あの一言が。
これほどにまで追い詰めたのか。
「・・・・少し色が褪せてきたかな・・・・・・。」
何の思惑も持たないが故に、それは残酷な刃となって。
この人の『心』を切り刻んだのか――――――――――。
「・・・・それで魔法を掛けたのか。」
こくり、と頷く。
「『対価』は何だ?」
物事すべて、等価交換。
見えぬ者が『光』を得るとしたら、その『対価』は――――――――――。
「・・・5日間の『声』。一切の弁明もせず、目的を気取らせもしないこと。」
それで、黙っていたのか。
『喉を傷めたのか』という問いに頷きも否定もしなかったのはこのせいか。
「後は・・・終わったあとの衝撃。」
流した『血』もまた、『対価』。
「これだけの対価を支払えば・・・・・・『30秒間』だけ『光』が『戻る』。」
「・・・な・・・・!」
たった、30秒間。
たったそれだけの、僅かな時間の為に。
支払う対価の、なんと大きなことか。
言葉を失う黒鋼に、自嘲気味な笑いが追い討ちを掛ける。
「なまじその方策を知るが故に、魔術師とは罪深き存在であるのかもしれない・・・・・。」
失われたものは、返らない。
モノも。
命も。
――――――――――光も。
だが、莫大な対価を支払ったら、たとえ僅かな時間であってもその望みが叶うのならば。
人はそれを為そうとするのだろう。
今は闇の世界に封ぜられた、『あの男』のように。
自分もまた。
「同じ穴の・・・・狢だ。」
顔を伏せた、その姿が。
その肩が。
微かに震えていると見えるのは、間違いではないだろう。
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「とにかく、もう寝ろ。・・・・まだ、目が熱い。」
問答無用で横にさせて。
手拭いを絞って、瞼の上に乗せる。
いくらか熱は引いたようだが、まだ熱い、と思った。
手の中に握っている飾り紐をそっと取る。
「・・・・・!」
手が彷徨う。
紐を傍らに置き、しっかりと手を握り締めた。
「もう、あの紐は使うな。」
「え・・・・・。」
「毎日使ってたらいつかは切れちまう。・・・・代わりの紐を作ってやる。」
「・・・・・・・・。」
「色がどうこう、という前に、お前がどれを使おうか迷うほど作ってやる!!」
だから。
『その色を記憶にとどめたい』などともう2度と思うな。
失くした光を取り戻そうと思うな。
どうしても『見たい』のなら。
その時は。
俺が『対価』を支払ってやる――――――――――。
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軒先に。
吊るした風鈴が、風を受けてチリリと鳴った。
いつだったか、旅の途中でリアンが買い求めたものだ。
モコナが預かってくれていたこの風鈴は、日本国にしては少し珍しい音がする。
気の早い蛍が1〜2匹、仄かな光を放って飛んでいた。
その蛍の姿は、深遠の闇に映ることは決して無いが。
心の、奥底に。
きっと優しい光を投げかけることだろう。
静かに、静かに。
夏の夜は更けていった。
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